Ricardo Villalobos

.....

LINEで送る


Ricardo Villalobos

Ricardo Villalobos

・出生
ぼくは、1970年8月6日にチリに生まれた。ヒロシマに原爆が落ちた日から、ちょうど25年後に生まれたことになる。そう、1時頃に生まれたから、日本時間でいうとヒロシマに原爆が落ちた朝8時のことで、ぼくはまさに、ヒロシマの原爆からちょうど25年後に生まれたことになるんだ・・・。

・家族
ぼくの母はドイツ出身で、チェコ人とドイツ人のハーフだ。そして4分の1はイタリア人、4分の1はチリ人の血を受け継いでいる。父は純粋なチリ人だから、ぼくは半分チリ人で、4分の1はイタリア人、4分の1はドイツ人ということになる。
母は大学でジャーナリズムを教え、父も同じく大学で物理と数学を教える教員だった。1973年、ぼくが3歳の頃、チリで軍事クーデタがあって(民主的なアジェンデ政権を、ピノチェト将軍がクーデタで転覆した)、ぼくは母の親族のいるドイツへと亡命した。独裁と、右翼による軍事クーデタで、母国を離れることを余儀なくされたんだ。拷問されたり、死に追いやられた父の友人もいた。全てがおぞましいものだったんだよ。
でもぼくはドイツへ亡命できてラッキーだった。だってもしそのままチリにいたら、ぼくはアカデミックな家庭で育ったから、もっと普通の、ある種の技術者みたいな職業に従事していただろうから。南米では専門的な技術者になるか、ただふつうに働く労働者になるかという選択肢以外に、職業として選びうるものなんてないんだよ。ヨーロッパならその可能性がもっとたくさんあるだろう?例えば音楽とかアートとか、そんなことで生計を立てる、幅広い人生の選択肢が。でも南米にそんなものはないんだ。

・アートやビジュアル・アートに興味を持ったことはある?
いや、ないよ。でも、ある男のホームページがあって(確か彼はエクアドル出身だったと思う)、彼がぼくと同姓同名なんだ。そして彼は、映像作家であると同時に、料理もうまい。ときに人生相談にも答えるようなかんじで、多くの人が彼をぼくのことだと思っているんだよ!人生相談をしてステキなレシピを提案する・・・、ときどき知らない人がぼくに寄ってきてこう言うんだ。「あのレシピはすばらしいね」って!そりゃもう、彼らがそれをぼくと思うままに放っておく。だってそのホームページはぼくにとって素晴らしいプロモーションとなっているからね!(一同笑)

ぼくは、父方の家系から音楽的資質を受け継いだ。ぼくの家族たちは、チリではいまだによく知られたミュージシャンだよ。父は、Parra家とVillalbos家の出身で、特にParra家は、とても音楽的にすぐれていた。チリの音楽シーンにとって、とても重要な一族なんだ。例えばVioletta Parra。彼女は、チリでもっとも重要なアーティストだよ。フォーク・ソングを通じた社会変革を目指した運動の先駆者だった。他にもいろんな人がいるけど、特に叔父(父の弟)は、ほんとうに天才だと思うよ。彼はギターを弾くことばかりしていて、完全にcrazyだったんだ。彼は30年の間、自分の世界に閉じこもって暮らした。周りのみんなも、彼は本当に頭がイカれたんだと思っていたよ。でもぼくは、本当のところ、そう思っていないんだ。ぼくは、彼が正気でないふりを装っていたのじゃないかって思ってるんだよ。彼は大人の責任なんてやつを持ちたいとは思わなかった。朝、目が覚めて、毎日仕事に行くなんて真っ平だと思っていたんじゃないかと推測しているんだ。だからある日、心を決めて、妻や子供たちへの責任を一切捨て去った。たぶん、ぼくもそのうち同じようにするかもしれないけどね(笑)。愚者を装って生きていくこと――、これは究極の自己満足の形なんだと思っているよ。
そう、とにかくぼくは数学と音楽に囲まれて育った。実際、このふたつはとても似ていると思うよ。音楽って、感情の数学(mathematics of feelings)のようなものだ。音楽と数学は、確かに関係が深いと思うな。

・音楽のルーツ
子供のころ、誰かが僕にギターを与えてくれたのだけど、とってもつまらないやって思った。ぼくはいったん習い始めれば覚えるのが早いんだけど、飽きるのもまた早いっていうタイプの人間でさ。 色んな事に才能があったと思うのだけど、ちょっと練習しなきゃいけないとなるとすぐ投げ出して。自動的に習得できるのであればいいのだけど、練習しなきゃいけないとなれば、もうすぐ他のものに興味が向かうのさ。だからギターに飽きるのも早かったね。でも本当のところは、心の底から後悔してるのだけどね。僕の人生におけるもっとも大きな欠如は、ギターやピアノを習得していないことだと思ってるよ。
10歳のころには、コンガやボンゴといったパーカッションを始めた。音楽はとっても好きだったけど、ミュージシャンになろうだなんて思ってなかったな。そのころは、パーカッション系の南米音楽を聞いていたけど、ある意味で南米音楽は、リズムとメロディの完璧なミックスチャーだと思う。メロディは常にメランコリックかポジティブなもので、それは人間が、メランコリックであるか幸福であるという考えに立脚しているからだ。そう、だから南米音楽は、常に人々をある気分へと向かわせる。それはとても素晴らしいことだよ。この影響はぼくの音楽にもあって、ぼくの音楽でも、メロディがこの両者―メランコックとポジティブ―の間の境界線上にあるといえる。
ある意味、ぼくたちがダンスするときに聞いているエレクトロニック・ミュージックは、アフリカと南米のパーカッション・ミュージックととても似ているよね。一方では、人々が何時間も何日も踊り続けるような、例えばサンバみたいなパーカッション・ミュージックもあって、人々が我を忘れて、現実を忘れることができる。これは、テクノの考え方や音楽構造と同じものだ。だから僕がアコースティックなパーカッション・ミュージックから、エレトロニックなパーカッション・ミュージックに興味が移るのは自然なことだった。僕のパーカッション・ミュージックについての知識は、全てエレクトロニック・ミュージックでの音楽活動に役立ったよ。ぼくは子どもの頃、何時間もパーカッションでセッションしていたんだ。それこそ夜通しね。両親は音楽関係の友達が多かったから、南米中の音楽家たちとセッションしたんだ。ほんの子どもの頃の話しだけどね。いつも皆がダンスせざるをえない音楽というやつを目の当たりにしていた。これは僕を虜にしたな。ミュージシャンとしてぼくは、なぜ人は踊るのか、ダンス・フロアーにおける真理とは何か、「ダンス」の背後には何が隠されているのか?そんなことばかり考えてきたよ。ぼくたちの世代は、今の若い世代のDJ達と違って、レコードを選択することや、音楽の趣味を提案することがだいぶ難しかったといえる。ぼくたちの頃は多かれ少なかれ、自分で自分のスタイルを考えなければならなかったんだ。情報のパッケージングなんてことは、まったく想像も及ばなかったからね。でも今の世代は違う。何がDJとしてプレイされるべきであり、どんなテイストで選曲すればいいのか、それから時代にあった曲調とか機材、クールな装いといったようなものが、全てパッケージングされているんだ。だから若い世代は、こうした環境を享受して、この情報の枠中で音楽活動をするのであり、自分自身で何ごとかを発見するような手間を省くことができるんだよ。
ぼくはミュージシャンとして、若い世代にぼくの知っている知識を伝えることがもっとも素晴らしいことだと思っている。今までもずっとそうしてきたし、アーティストとして、また一人の人間として、若者たちに、政治的考えであれ音楽的知識であれ、自分の培った知識を伝えていくことが、唯一の使命だとすら思うよ。才能のある、尊敬すべき人々に、自分の考えを伝えていくことは本当に大事なことだと思うよ。ぼくの父も、実際そうしていたんだ。ぼくの家族はいつも教えることに精力を注いできた。力学、文化、地理、数学なんかの知識をね。ぼくは幸運にもそれを享受することができたんだ。だからこれからは、ぼくが若い世代やぼくの家族に、こうしたこと伝えていく番なんだ。
・ファースト・プロジェクト
ドイツのフランクフルト近郊の学校に行っていたんだけど、そのころ小さなバンドを結成した。田舎の小さな町で、都会から離れて育ったんだけど、田舎で育って本当によかったと思っている。
子供のころは悪ガキで、スポーツや、音楽の演奏ばかりしていたな。Santanaや、ラテン・ロックみたいなバンドを真似して演奏していた。もちろん、パーカッション担当さ。それから、Depeche Modeを聞くことでエレクトロニック・ミュージックへ関心が移った。15歳のころだったね。僕にとって彼らは、80年代の人々にとってのBeatlesみたいな存在さ。その頃にはDJも初めて、この頃にぼくは大切な友人たちと出会った。例えばPlayhouseのみんなとか、その後のぼくの音楽人生とって重要な友人たちとね。

1992年には初めて自分の楽曲をリリースする。当時ぼくは、廃墟となったビルや高速道路の橋の下で、アンダーグラウンドなイベントをオーガナイズすることで、ダルムシュタットやフランクフルトでちょっとした有名人になる。このイベントに参加した人たちは、いまだに目を輝かせてこのイベントの思い出を語り出すよ・・・。
このころAtaや Roman Flügel、そしてJörn Elling Wuttke (Alter Ego)なんかと出会った。そして“Playhouse″からリリースすることで、このレーベルのクルーたちとチリの月食レイブへツアーすることになるんだ。これが初めて母国へ再び訪れる機会となった。このツアーで、ぼくやAtom Heart、Dandy Jackといったチリの血が流れるみんなは大きなインパクトを受けたものだよ。
その後1995年にはイビザを訪れ、この国を第3の祖国だと思うようになる。クラブAmnesiaでCocoonのイベントに参加するようになり、その後Cocoonの一員となるんだ。

・DJING
もちろんDJは大好きさ。いわゆる仕事なんてものじゃないね。もっとボランタリーな対象だ。DJをしていること自体が大好きだし、人々をダンスさせるのがこの上ない喜びなんだよ。ぼくはDJの間、踊ったり跳ねたり、大げさな身振りをしたりはしない。そういうのは、ぼくのスタイルじゃないね。みんな音楽に集中する必要があると思うし、また一方でダンスフロアの雰囲気に身をゆだねていることも重要だ。リラックスしていることも大切なことだと思うよ。こうしたことは、人々が期待しているようなレコードの間に、ちょっと一見わかりずらいようなレコードを挟んでくる、ぼくのようなスタイルがぴったりなんだと思うよ。もちろん、みんなそれぞれのスタイルがあって、それでいいと思うのだけど、ぼくのDJスタイルはずっとそういうものなんだ。

.....

2012-3-30th